高野山の管長で、今大師と呼ばれ、多くの方から尊敬を集めた金山穆韶師が日々どのような修養をつまれていたか、その著作からご紹介する。
私は幸いに金山師から伝授を受けた阿闍梨や、さらに同様の方から受法された阿闍梨から、ある法を授かり、日々修行している。またその法脈の一部も授かったということもあって、金山師の修養に関心を寄せている。
金山師は求聞持法の修行により
「満天に何千という星がきらめき、その中央に一大円輪の碧空をなし、その中央に大きな月がでてこうこうと輝いていても星の光は消えず、何時も燦然と輝いている。仏教でいう三世の諸仏、つまり仏は一体でなく無量の仏があることを悟って長い間の疑問が晴れたように思われた」
という体験をしている。
そこをふまえて金山師の日々の修養は
「弘法大師の真言密教にては、大日如来および一切如来の大覚の光明をいただく道として胸のうちに月輪ありと観じて「オンアソワカ」の真言をとなえることを示されている。
しかし、胸のうちに一の月輪ありと作意的に観ずるより、自分が感見せし、一大月輪を中心として、無数の星辰のかがやき、私を照らすとともに、多くの人々を照らされてある観に住しやすいから、旅行中なぞ、この観に住することがあるが、私の居る車の窓外に座しておがんだ人なぞおられた。
私は人におがまれるようなものではないが、月は日の光を受けて光るように、御仏の光を念じ、その光をいただいておれば、自然にほかにもそのひかりが及ぶものとありがたく思うのである」
さて金山師のような深い体験がない我々は月輪を観じにくいだろう。
そのときは自分が好きな神仏をなんとなくでも思い出し、真言を唱えればよい。(もちろんオンアソワカでもよい。諸仏に通じる真言である。金山師はこの真言を在家の人に唱えることを勧めていたようだ)
私は特に上記赤字の部分に感銘を受けた。
御仏の光を念じていると、その光が自分だけでなく、自然に自分の周囲をも照らすのだ。
それは生きている人だけでなく、亡くなられたご縁のあるかたにも及ぶだろう。
ただただ、素直に念じるのみである。
ちなみにいま私は、当庵でお祀りする「導き大師」の御姿を念じ、「オンアソワカ」と「南無大師遍照金剛」を朝晩唱えている。
金山師のお墓