私も自分の信仰に疑念を持ったことは何回もあります。その疑問、疑念が自分を成長させてくれました。疑問は導きの手です。その人の成長に必要な時にやってきます。
一方、疑問をまったく許さない教えは、霊的に成長しません。
同じ施餓鬼供養を拝んでいても観念が初めの頃よりは随分と変わりました。はじめは苦しむ霊を救うでよいのです。それが進むと餓鬼も曼荼羅の諸尊であり、われら等しく阿字の菩提心を有していると実感できるようになります。
密教は勝義心といって、より優れた教えを求めるこころを重要視します。
はじめは目先のご利益信心でよいのです。それは入門です。
しかし、いつまでもそこにはとどまれません。
苦楽順逆のさまざまな事象を前にして、行を修めることで、心の底からの安心の世界に進んでいくのです。
これが信仰の醍醐味です。
ここからいただいたメール(ご本人の許可を頂き掲載します)
大森先生は自分の信仰に疑念を抱いたことはありますでしょうか?
ここ数か月、なぜか無力感を感じてしまい、施餓鬼供養をしていませんでした。
聖天様への信仰はまったく揺るぐことが無いのに、なぜか施餓鬼供養に対して「意味があるのだろうか(すみません、誠に申し訳ありません)」と思うようになっていました。
多分、聖天様は目に見える形でご利益があるのに対し、施餓鬼供養の効果は目に見えないからだと思います。
そこは目に見えなくても必ず届いているという大森先生の言葉を信じなくてはと思いつつ、それができていませんでした。
先日、息子が2年ぶりに帰省し話したときに
「〇〇神社」って知っていると聞かれました。
まさしく昨年、娘が自分の先祖のことが知りたいと言い出した時に、ご先祖様が建てた神社ということで一緒に行った所です。
息子曰く、なぜか帰省する前にご先祖様のことが気になり、ネットで調べたところ「〇〇神社」にたどり着いたそうです。
娘と一緒に笑いました。
やはりご先祖様には何かしら届いているんだなあと安心しました。
ちょっとブランクが空きましたが、再開したいと思います。
以上、宜しくお願い致します。