善龍庵 大森義成先生
いつもお世話になります。
この度も施餓鬼供養、滅罪会、不動明王修行会をありがとうございました。
施餓鬼供養では、自分の過去世、守護霊様をお願いしましたが、とてもスッキリしました。
私は霊感はありません。しかし、ご供養を通して何かを感じることはあります。
そこに執着せず感じるだけにするよう気をつけていますが、今回も何か大きな存在が私の両肩の上からみているような感覚や何かが集まって話をしているような感じがしました。
また、小さな白い何かが水を飲んでどんどん上に上がっていくような感覚もありました。不思議です。
今回、私はなぜ自分の過去世の施餓鬼供養をしようと頭に浮かんできたのか不思議だったのですが、今までの修行を通して自分のすごく奥の奥、無意識にある想いが過去世からあるものだったのかもしれないこと。
そして、おそらく私のその過去世の苦しみや悲しみ怒り(実際どのような過去世だったのかは分かりませんが)こそが、今日、こうして大森先生や羽田先生とご縁を頂きご神仏に向き合えるように繋げてくれた一因の一つではないのかと思いました。
なので、過去世の自分の苦しみ悲しみ怒りを認め、それがあったからこそ今、こうしてご神仏へと手を合わせられる自分がいます。
ご神仏へと繋げてくれてありがとうございます。と感謝を伝えました。自分へとずっと繋がっているものがあるということが分かってとてもありがたく感じました。
そして、それは滅罪会でも感じられました。
私はいつもお次第を早く頂いてもその期間中にしかお参りをできていないのですが、3日間という短い期間にもかかわらず滅罪会は施餓鬼供養の時とは違ってなかなか集中ができませんでした。
体調のこともあるから仕方が無いとは思っていたのですが、そのような中でも、お参りの最中に私たちは見知っている自分の親兄弟だけでなくおおきく長い命の連鎖の中にいると感じました。
そのときに施餓鬼供養の時は自分と自分の過去世との縦の繋がりを教えて頂き、滅罪会ではご先祖様をはじめ命あるもの命あったものすべてと繋がっている横にも繋がっているということを教えて頂いたように感じました。
こういうことは頭で分かっていてもすとんと府に落ちるというか体感しているように毎回感じます。
木のイメージがでてきて、あー、私たちは根の時代も幹の時代も枝や葉や花、落ち葉になってまた養分になっていく循環している
ものの一つで繋がっていて共有している、といったような感じも受けました。
根の時代の苦しみも花として散っていく寂しさもある中でその瞬間その瞬間を一生懸命に生きている。
循環しつつも他とも干渉し合っている世界。苦しみも楽しさも同じところから来て還っていく感覚。言葉では上手く言えませんが、そんな感覚がありながらも、現実の自分の懺悔も感じている。
私がいま懺悔していることは母やもっと昔の人や他者とも通じてもいる。私だけのものでも無いのだと。
そして、それは私自身も子どもへと知らず知らずにしてしまっていることでもある。先生が仰るようにそれは役に立つこともあれば何かの折に苦となることもある。同じなのだと。
だから恐れる必要もなく認めて手放していけばいい。そうすると流れ始める。木の実が水におちて流れて今度は違う土地でまた芽を出して天へと伸びていく。
喜びも悲しみもそういう風に続いていくものなのだと。もしそこに執着してしまえばきっと木は腐ったり枯れてしまうと感じました。
本当にいつもありがとうございます。
今年もあと1ヶ月になりました。寒さも少しずつ厳しくなっていくようです。
どうぞご自愛ください。
この度もありがとうございました。
ご神仏シリソワカ
大森先生シリソワカ
ご同行の皆様シリソワカ
合掌