私たちが観音様のようになるには、
真観(濱地居士の説明では「一切の物の真実なる本性は本来空なりと観察するを真観という」)
清浄観(同じく「一切の物のは空なるを以て、住着(註、執着のこと)なき清浄のものなりと観察するをいう」)
(本来は実体が無いのに、眼の前の現象を実体だととらわれると不浄感や罪悪感などの誤った認識をもつから、大森)
それにより、私たちには本来は実体がなく、それに執着しないことで清らかな心をおこす。そしてすべてのものは真如実相の現れなのだと観察することで、すべての迷い、自他を分け隔てるこころを生まないようにすることである。
金剛経には「無我の法に通達すれば真のこれ菩薩と名づく」とある。
また「一切の諸相を離るるを諸仏と名づく」とあるので、無我相の修養を行うときは菩薩の位に至るのだと知ってもらいたい。
この修養はとても難しいようだけれど一心に南無観世音菩薩と称名するときは、知らず知らずの間に自我のとらわれから離れて、観世音菩薩と同体となり、あらゆる迷いから解放されて、心身共に脱落する(悟りが徹底する)にいたると、私は信じている。
心身脱落するまでにいたらなくても、観世音菩薩の大威神力により、貪瞋癡の三毒か少なくなって行くので、財、色、食、名、睡のために罪悪を作ることが無くなっていき、反対に福を増し、寿命が延び、一切の災難を除くとは観音経に説いている如くで、疑ってはならない。
続く
大森談
一身称名の時に、心を集中しにくい人は、目は閉じず、観音様のお姿を何となく見ながら、自分の気持ちや悩み、迷いを預けるつもりで唱える。
あるいは全ての生きとし生けるものと一緒に南無観世音菩薩と唱えてると、なんとなくイメージするとよい。
また、合掌の掌を少し意識するのも一法である。
意味が通じやすいように。若干意訳し現代文に改めた。文責 大森。
無我相山にて観音様