神仏に貸せばよいのに、借りつける
大正時代に活躍した大霊覚者、泉庄太郎師(泉聖天尊・1862~1918)が、お弟子のⅯさんにおっしゃるには、
「Мさんよ、みな、銀行へ、よう金を預けるな、通帳につけてもらいよる」
Мさん「ヘイ、そないしよりますな」
泉師「神さんやって預けといたらええのに、みな神さん借りよるぜ」
Мさん「そうですか先生。神さんに借りるって、どんなんでございますか?」
泉師「例えば神さんへお参りに行くのに、バケツもっていきお手洗いの水を新しくかえる。あるいは箒を持っていきお庭(境内)をはく。あるいは雑草を抜く。こういうことをしてキレイにしといたら、これは神さんが借りたんじゃ。手間を神さんに差し上げたら、神さんはすぐにはお返しにならんのじゃけれども、帳面につけてある。
これ神さんに貸したん。
ところが中には神さんに手をたたいて一生懸命頼んで「私のところは、どうも貧乏で困ります。どうぞ運のええように頼みます」と、根限り頼んどいた。頼んだのは借りたんです。神様が助けるのに借りたことになる。
それを(ご利益があって)手元がうまくいって、運がむいてきたと思うても、神さんのほうには有難うございます、と言っていく人がいない。
「おかげで助かりました。有難うございます」と神さんにお礼を言えばよいのに知らん顔している。これは借り捨てになる。
神様には精一杯、貸しておきなさい。神さんは借りるの好かんから、すぐ払うんじゃ。
折があったらすぐに払おう払おうと神さんなしとる。ちょうど銀行にお金をあずけて、通帳につけてもろうたんと同じ。
銀行と神さんとは違うけれども、たとえたら、そんなもんであって、神さんはお返ししようと思って時を見よる。
そういう風に貸したら、あんまり借りたら気の毒になと神さんがお返しなさる。
これがご利益です。
ところが、神さんへ頼んでおいて助かっとるのに、お礼にいかんのは、これは借り捨てになっとる。ここを勘違いせんようにせな、いかんぜ」
と泉師はニコニコ笑いながら話したそうだ。
神仏は時をみて、折りをみて、お返ししてくれるというのは、心得ておくべきでしょう、