滅罪会は特に罪悪感に焦点を当てます。
罪悪感というのは巧妙でしてそれを普段は感じたくないので様々な意識でごまかすことがあります。それには様々なパターンがあるようです。
ですから一概にこうだとは言えないのですが一例をあげると、被害者意識で罪悪感を感じないようにすることがあります。
実際に被害者であってもその意識というところがポイントになってきます。
この文章を読んですごく気になる人はその傾向があるかもしれません。
あと自分の中に役に立たないあるいは無能であるという感覚がある人は、小さい時に親の役に立てなかったという意識があった可能性があります。
子供は何とか親の役に立ちたいと思っていることがありますが、小さな子供にはかなり難しいことです。それがある意味罪悪感になることもあります。
あるいは全く感じないようにするという現象もあります。
どちらにしても懺悔においては仏様の前で、心を開いて全部お見せするという気持ちが大切です。
聖天さんにお供えする大根やお酒、歓喜団は貪瞋癡の三毒、煩悩を象徴していると言われております。
あるいは護摩の時に炎の中にくべる、五穀などさまざまなお供え物は全て煩悩の象徴です。それを燃やして仏の智慧に変えます。
仏様のお供えというものは私たちの煩悩なわけです。
仏様に叱られるのではないかと思って懺悔するのが怖いと思うのは、親にバレると怖いと言う意識に近いと思います。
しかし、仏様は私達の心の奥底までお見通しですので、遠慮なく懺悔しておまかせするということが一番のお供え物とも言えるでしょう。
これによって自分が楽になれば自分に連なる様々な方々も楽になっていきます。
それは生きている亡くなっているに関わらずです。
水面に石を一つ落とすと全体に広がるようなものです。
そして懺悔による滅罪や施餓鬼供養などは仏様の大慈悲による功徳行です。
故に小さい時は力不足で、たとえ役に立たなかったと感じたかもしれませんが、今は親先祖、誰もできなかった功徳行を修めているという自覚を持って良いでしょう。
ちなみにこの修行していてあまりに苦しい時には休んでも構いません。それは自分に対する敬いです。
ありがたいことに仏様の大慈悲の力、多くの修行者の功徳力が助け合い支え合うので無意識のうちに滅罪が成就しているのです。