大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

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11月 滅罪会の感想その19

大森先生こんにちは、◎◎◎と申します。

いつもありがとうございます。
17日からの今月の施餓鬼供養を申し込みたく存じます。
早いものでもう師走、私にとって本年では最後の施餓鬼供養となります。
 
そして今年は初めて4月、11月と滅罪会に加えていただきました。
こんな私がここまで熱心になれたのもひとえに天尊のお導き、そして大森先生の丁寧なご指導、修法の賜物だなと感謝申し上げます。本当にありがとうございます。
 
施餓鬼供養や滅罪会を通して、今の自分の輪郭とでもいうのでしょうか、昨年以上にはっきり認識させられた次第です。
 
今の自分や環境も含めてすべてを形作っているもの、今の自分足らしめているものの土台は意識するせざるに関わらず良し悪しにかかわらず自分が積んできた業なんだなと、言葉尻ではなくストンと腑に落ちた感覚がありました。
 
自分で犯してきた悪業ながら、それに染まり苦しんだら辛いなぁ、でも自分で蒔いた種だから己一人で刈り取り苦しむのも仕方あるまいと意を決して参加した滅罪会でしたが、想像に反して今の、今までの連続した自分像を外から内から客観視するような、そんな修行体験でございました。
 
もちろん、申し訳ないという謝罪の気持ちも同じくらい湧いて出てまいりましたが、その罪悪感に染まりきって苦しむのではなく、罪や業を認識して今の自分を認めるというような感覚。
 
汚い例えで大変恐縮なのですが、自分の中に普段は意識しないこんな汚いものがるんだと外に排出して初めてわかる業のにおいとでも言いましょうか。
でもその悪臭にに染まり苛まれるのではなく、それに囚われず、認め、淡々と掃除をして清めるような感覚でした。
 
それを体験したうえで、連続だった今までををケロッと都合よく忘れるのではなく、ふと離れてみる、それで今まで、これからを見つめる。
 
弱い見栄っ張りな自分が自分を守るため、つまらないプライドで聖人君子になろうとしてあがくのではなく、弱さや醜さを認めることができました。弱い犬ほどよく吠えるといいますが、自分も臆病な犬に負けないくらい臆病だったんだと。
この私の感覚が正しいものなのかは判断がつきませんが、大切な経験でした。
 
弱いことを認められず苦しむ私を見かねて天尊が手を差し伸べて下さった、大森先生との縁を繋いでくださったんだなぁと改めて感謝申し上げます。
 
 
聖人君子足らんと足掻くのではなく、俗っぽい弱い自分を認め、弱虫なりの仏道精進をして、自他二つ乍ら利益するによって歓び喜ばるる生き方ができるよう、これからも施餓鬼供養を基本に大森先生が執行してくださる修養の場に参加させてくださいませ。
 
一年間の天恩感謝の気持ちを込めて少しずつ貯めたお布施で、年末に待乳山にて百味供養で御礼申し上げるのをここ2年ほど楽しみにしているのですが、今年はまた少し違った気持ちで法要に参加できそうです。
 
大森先生、ありがとうございます。

撮影Tさん