大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

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信仰と災い その3

自分だ!我だ!というが、この自分なるものは、元来生まれる前も、生まれた後も、死んだあとも、ことごとく「無我相」そのものの姿である。

 

それであるのに、善いことがあったと言っては喜び、悪いことがあったと言っては悲しむ。これは人の智慧の浅墓だからだが、仏さまの御眼よりながめられたならば、定めし不憫に思われることだろう。

 

そこで、人から侮辱されたときは、本来自分が無我相であるべきなのに、それに気づいてないのを、仏さまが諭してくれているのだと思い、また自分の上にふりかかってくる色々な災難などに対しては、これまた自分が無我相に気づいてないのを反省させているのだと思う。(大森注、すぐにこう思える人はすでに達人。はじめはそうはいかない。無理にそう思い込むことではない。こういう考えもあるのだと覚えておくことが大事。そうすると、機縁が熟すると、腹からそう気づけるときがくる)

 

このように修養を重ねていくのならば、ついには本当に無我相の本体に帰って、貪瞋痴の三毒煩悩を離れるようになり、即身成仏といって、この身このまま仏になることができる。

 

したがって、深重な罪業によって当然堕ちるべきであった、地獄、餓鬼などの六道の苦しみをも、いつかは消除し去ることができるのである。

 

(濱地八郎著、『金剛経要義』から引用、少し現代文に直しました。文責 大森義成)


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金剛般若経 鉄眼版