大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

懺悔 供養 祝福 報恩 敬愛 (c)善龍庵 大森義成 禁無断転載

自分自身を許すとはなんなのか

修行を通して自分に向き合うと、さまざまな気づきが生まれます。それが自分を導きます。結局、自分を救うのは自分の心中の神仏です。

罪悪感というものは視点を変えれば自心の神仏からのメッセージかもしれません。大森

 

大森義成様
こんにちは。〇〇です。いつもありがとうございます。

昨晩、就寝前にふと気づいたことを共有させていただきます。

ひとの善悪に関わることなのですが、善悪とはどんなに悪そうなことにも一概に善や悪と決定づけられることはなく、それでは善悪を判断する意味がないのではと考えていました。

 

例えば、凄惨な事件自体は酷いことであっても、それをきっかけに社会が大きく変わり、今後100年というスパンで見れば果たしてあれは純粋に悪と言えたかと考えるようなものも存在していると思います

 

それゆえに法律や道徳からくる善悪は人間が群れという社会を維持していく上で仮に定めらられたインフラとしての基準でしかないと考えていたのですが、近頃、大森先生の様々な修行に参加させていただき、個々の人間には良心というものが存在して罪悪感を持ち、その罪悪感自体がそれぞれの善悪を生じさしめてそれと対面することこそが各人にとって最も不可欠なことなのではないだろうかと考えるようになりました。

 

いわゆる法律や道徳というものはそのような罪悪感を平均化して明文化、慣習化して生活に入り込むことで社会を規律するだけのものに過ぎないとは思うのですが、一方で個々の罪悪感は一度生じれば自分自身を罰し続けるという意味でそれらよりも自己の中での優先順位が上位にあるのではないかと思います。

 

それゆえに、その個々の良心から生じる罪悪感と向き合いそれを何度も反芻し消化して最終的には自分を赦すということが罪の解消であり、生前ないしは死後に救われるということなのではないかという考えに至りました。

 

それならば今を生きる課題はその罪悪感を生じせしめてる自分の中での良心を形作っていくことであり、それがいかに鮮明なものとして描けるかどうかが人生のさまざまな価値判断や選択を左右し豊かさというものを変えるのではないか、自分らしく生き、自分にとっての幸せや罪と向き合い意味のある人生になっていくのではないかというように今の段階では考えております。

 

自分自身を許すとはなんなのか、それ自体どうして大切であり必要なのかを自分なりに考えてみたことを拙い文章で申し訳ないのですが、お伝えさせていただきました。

供養や修行の時は、特に前向きになれる機会となってますので、とても感謝しております。これからもよろしくお願いします。立春といえども寒い日が続きそうですので、何卒ご自愛くださいませ。


f:id:oomorigijyou:20240202102415j:image