大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

懺悔 供養 祝福 報恩 敬愛 (c)善龍庵 大森義成 禁無断転載

許しと間(ま)

滅罪会の修行は懺悔と許しです。
しかし、そのなかでどうしても、だれかを許せないというのは、様々な事情があるからです。
無理もないことです。
その人のせいではありません。
 
仏さまはそれがわかっています。そして、慈悲のまなざしを向けてくれています。
 
そして、頭ではなく身体がそのときに、これは危険だと感じて、自分を守るための防衛反応として、「許せない」という選択肢をとったのです。
 
時は流れて危険は去った現在でも、防衛反応だけが残っているのです。
 
これはある意味、その人と適切なこころの間がとれていないとも言えます。
すべての人間関係において「間」は重要なのです。(精神的にも物質的にも)
 
そういうときは、許しは一度置いといて、
「私は(〇〇、例、母親や父親)と適切な間(ま)を取ります、シリソワカ
と繰り返し唱える方法があります。
 
 
 
あわせて報恩会や吉祥会の修行や施餓鬼供養に専念すると、だんだんと自然に自分軸が強くなり、こころに余裕が出てきます。
すべての修行は連動しているので、比較的やりやすい所から始めるとよいでしょう。
 
ここからいただいた感想
 
陀羅尼報恩会、初めて修行させていただきました。
有難う御座いました。
「ありがとうございます」を重ねていく部分ですが、感情をのせず淡々と読誦したのですが、読誦している内に様々な御縁の不思議やお助けいただいた色々な事柄が思い出されて感謝の涙が溢れてきてしまいました。
 
最初の頃の滅罪会では「母を許します」がどうしても言えなくて、「は・は・を・ゆ・る・し・ま・す」と口を動かす訓練だ、感情はのせない、母にされた仕打ちは思い出さない!と思い込んで淡々と読誦しないと、どうしても読誦出来ませんでした。
母にされたひどい仕打ち・言葉が津波のように押し寄せて、身を固くして嗚咽を堪えるしか出来ませんでした。
 
でも滅罪会や他の修行会の数を重ねて、今は最初の頃ほどこだわりなく「母を許します」と読誦できるようになりました。
(今でも感情がのってしまうと昔の思い出が襲ってきて辛い時もありますが…)
遅々たる歩みですが、少しずつ苦しさから離れる事が出来ているのかな…とふと思う時があります。
修行させていただき有難う御座います。